スポーツ振興

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上田スポーツプレス

2020年(令和2年)1月16日(木曜日) Vol.45  上田スポーツプレス

上田市軟式野球スポーツ少年団記念誌より

上田市軟式野球スポーツ少年団40周年記念誌より
『野球振興に向けた40年の出会いに感謝!』

団長 宮下省二

東信ジャーナル211202

創立40周年記念式典

 昭和56年、上田市教育委員会の成沢宏昭係長(高校1年で甲子園大会出場)から「宮下君、少年軟式野球教室を始めたいが指導者を集めて欲しい」との指示があり、土尾康雄氏、高橋幸夫氏、堀田吉行氏の3人に依頼して、昭和57年にスタートした。最初は運動着に背番号を着けて参加したが、上田市体育協会岩草満事務局長(成沢係長の兄)のご配慮で、上田市軟式野球連盟登録チームからユニフォームをご寄贈頂き出場した。

 初代団長平野茂氏(県議会議長)のご好意で、エコーバレースキー場のワゴン車を借用し、大会等広範囲な活動を行った。また、湯本忠男氏(八十二銀行)が写真撮影を担当し、その後の記念誌発刊の資料に活用した。平野団長の思い出は、長野冬季オリンピックで来日したサマランチ会長を上田駅で出迎えた際、爆弾騒ぎで緊急停車したことがあった。後に平野団長が「最後まで青い帽子の子供達がいたが、皆さんだったんだね?」と嬉しそうに話された。初の全国大会出場の祝賀会場に一番先に来られ「県営球場をつくれば皆さんは喜んでくれるかな…どうだい?」と促され、「ハイ」と答えるのが精一杯だった。その後、県営上田野球場の建設計画が浮上した。県議がご逝去されるとバックネット裏のスタンドの尾根が、屋根なしになったのは残念だった。

 二代団長若林正五氏(市休育協会長)から「宮下君そろそろ全国大会へ出場できないか」との叱咤激励を受け、本格的に取り組む事になった。折しも湯本さんから、文字で活動が分かるようにとの依頼を受け『礼プラス努力プラス団結イコール結果』を掲げた。その後、市民の森など低額な県内外の青少年施設を利用し、保護者の皆さんのご協力を得て合宿を実施した。その中で基本動作の修得に努め、心と体を鍛える練習を行ったが、食事の指導には苦労した。スポーツ選手で最も必要な大きな声を出す練習では、千曲川堤防で校歌の独唱を行い効果を上げた。投げ方の矯正は、バドミントンのラケットを振り、バッティングの矯正では、手袋をはめた手の甲で小さな石を打った(巨人軍OBから考案者を問われた)。バントの矯正は特に大変だった。正面バントを取り入れて、全身の力を抜いて手を前に出さないで、膝を上下する練習を繰り返し、「バントの上田」といわれるチームにまで成長し、諏訪の県大会決勝では相手チーム監督から「初めてバントで負けた」と言わしめた。合宿では、1日の投球数は800球は超え、ノックは千本を数えるなど体力の限界まで力の限り行った。冬期練習では、上田城跡公園本丸お堀の周囲を走り、フライとゴロの捕球の基本動作を繰り返し行い、送球のステップにも取り組んだ。卒団された皆さんが、中学校大会で見せた足さばきが見事で、嬉しかった。

 三代団長久保忠夫氏(信州ハム社長・商工会議所会頭)が就任され、全国大会に連続出場となり水戸まで応援を頂いた。ご挨拶では「私か団長になってから全国大会に出場するようになった」と終始笑顔で話された。大会会場でシンガーソングライターの中村ブン氏と偶然お会いし、団歌の制作を即答で頂いた。素晴らしい詩と曲で、涙の卒団式としてケーブルテレビで紹介されたが、土屋コーチは「この歌は涙がこぼれてしまって歌いたくない」といいながら、目を真っ赤にして熱唱していた。団員の欠点を修正するため写真や映像を撮って、深夜までバットのヘッドの位置やスタンスの幅を確認して指導にあたった。コーチ会議では優勝を目指して、工夫を重ねた。そうした中で、ティーバッティングとバントの認定試験(1~3級)を採用し、意欲と技術の醸成に努めた。試合前の団歌斉唱やナイスバッティン・ナイバン・ナイランなどの掛け声も導入し、リラックスして試合に臨むため模擬剣道も行った。自分の日標に到達できない団員には、トンネルを抜け出すため、プロ野球を始め指導者が実践して効果のあった内容を取り入れた。

 四代団長石井昭平氏(元市商工信用組合理事長)は、野球をこよなく愛し練習試合や大会にもご同行頂いた。団長が亡くなられる直前にしたためたメモには「葬儀の際には団歌を歌って欲しい」との走り書きがあった。お通夜と告別式の当日、15期中曾根君の母曰く「団歌を捧げとても感動的で涙が止まらなかった」との見送りとなった。……合掌。

 野球講習会は、堀田コーチのご尽力でプロ野球等で活躍された選手を招聘して開催された。ゼットスポーツの伊達泰司氏には10年にわたりご指導を頂いたが、ティーバッティングで市営球場のレフトスタンドに軽く打ち込んだパワーには驚かされた。また、元南海ホークスの森下正夫氏には、捕球した後両手を胸に持っていくと悪送球は絶対しないとの熱い指導を受けた。

 卒団者の思い出は尽きないが「野球をやっていたお陰で大企業に就職ができました」と真夏に背広姿でグラウンドに来たA君に、大きく成長した姿を見た。また、上田高校を中退して就職されたB君には心機一転の気をもって行動を促すため、長文の手紙を送った。その後、お母さんから「自衛隊に入隊し、玄関でお父さん、お母さん唯今戻りましたと挨拶をしてくれて嬉しい」との弾んだ声の電話を頂いた。コーチ達は、目標に向かって力強く歩んできたが、それが自分のため、家族のため、好きな野球のためと様々だが、野球少年の将来を夢見て、努力を惜しげもなく傾注した姿に変わりはなかった。団員の皆さんには「スポ少で得た経験を中学・高校・大学・社会人になっても大きな目標に向かって自分に負けないで、頑張って欲しい」と訴えた。

 五代団長西田不折氏(西田技研社長)は、団員が減少し始めた時期にご就任され、常に笑顔と温かいまなざしで卒団生を送り出して頂いた。現在、市交流文化センター館長に就任し、民間感覚を大切に館の運営等にあたられている。副団長の宮本文明氏(第一商工社長)は、会社経営でご多忙の中、精力的にご支援を頂いた。

 六代団長宮下省二(県スポーツ少年団副本部長)は、「上田・東御・小県青少年野球協議会」等に関わり、野球人口の拡充に努めながら、令和10年開催予定の長野国休(上田は軟式野球予選会場)で天皇杯獲得に貢献できる人材づくりに励んでいる。

 結びに、スポーツ少年団の活動にご尽力を賜りご逝去されました団員、役員、指導者、保護者の御霊に哀悼の誠を捧げます。40年間に渡りご支援、ご協力を頂きました皆様に厚く御礼申し上げます。役員の吉松俊一医師、終身会計の湯本忠男氏、歴代記念実行委員長の故尾崎和彦氏、青柳武夫氏、金子哲也氏、佐藤則之氏、編集委員長の照井正夫氏、遠山弘子氏、中村江津子氏、そして発足時からご協力を頂いた副団長の高橋幸夫氏に心から感謝を申し上げ挨拶とします。

上田市軟式野球スポーツ少年団30周年記念誌より
『目標を持って努力し続けた30年』

代表指導者 宮下省二

 昭和57年、青少年の健全育成を目的にして発足以来、このたび、30周年という大きな節目を迎えることができました。

 この間、団長さんを始め多くの役員の皆様そして、団員の皆さんや保護者の皆様のご協力を頂き、本日を迎えられますこと、本当に嬉しく感謝申し上げます。

 私のスポーツ少年団に対する思いは、5年ごとに発刊しております記念誌の中で述べておりますので、今回は団員の皆さんから頂いた年賀状のお返事をする際、必ず書いております『団のモットー』と『目標』についてお話をさせて頂きます。

 私は、以前、団会計をお願いしている湯本忠男さんから「団のモットーがあったほうがスポ少の活動が理解され易いのでは」とのアドバイスを頂き、本団のモットーである『礼 プラス 努力 プラス 団結 イコール 結果』をまとめました。何事も最初は、挨拶から始まります。挨拶できない人が、チームを戦う集団にすることは不可能であります。礼が身について次にすすむのが努力です。努力もグラウンドにおける努力と家庭での努力、更には学校等での努力があります。そして、努力を一生懸命やっている人が誰でも思うことは【試合に出たい、そして勝ちたい、上の大会に出場して優勝したい】という願望であります。その願望を、団員個々の願望からチーム全員の願望に変えることが、目標であります。目標が全員の気持ちの結集として確認できれば、はじめて夢(目標)に向かっての体制が出来上がります。また、大きな目標を達成するためには団員が、自分のできないことを自覚することが大切であります。そのため、なぜ出来ないのか、その改善に向けて努力をすることの意味を理解させることが必要となってきます。全員の努力がやがて団員の意識を変え、技術の向上と団結が高まると同時にチームカも向上し、夢(目標)に手が届くところまで団員自身が登りつめるものと信じています。

 スボ少全国大会への出場(5回)は、モットーの方程式を進めると同時に、指導者の工夫と熱い思いを持ち続ける強固な意思と家族・職場の協力があって可能になるものと思っています。卒団されて多くの皆さんが進学し、社会へ巣立って行きました。

 私は、野球を通して、社会人としても応用できる戦術を教えてきたつもりでいます。それは、スポ少のモットーを社会人になっても積極的に活用する事であります。『礼+努力+団結=結果』は、学校や職場及び地域などあらゆる場面で通用します。今後さらに磨きをかけて活かしていってほしいと願っています。

 私は、今まで団員の皆さんに団のモットーと合わせて目標を持つことの大切さを指導してきました。そのため、指導者として、私自身も今日まで常に目標を持つよう努力してきました。それは、一度しかない人生を悔いのないようにするため、目標を立てながら自らを奮い立たせる事で、今日まで30年間休む事なく活動して参りました。

 その一例を述べさせていただきます。

 勤務していた市役所では、90を越えるアイディアを駆使して、2年前に退職しました。今振り返ってみると、野球の活動そのものが最終的には私に元気を与え、私を導いてくれたものと感謝しています。

 平成21年上田市が、まちの賑わいを目的に「中心市街地活性化基本計画」を策定した際、私はその計画に沿って『城下町ルネッサンス』の一助になればと『真田幸村公』をテーマに上田の町の活性化に取り組んできました。まず最初に、NHK大河ドラマの放映を目指して、署名目標数を真田六文銭に因み666,666人に設定しての活動は、全国47都道府県から76万人という驚異的な署名を積み上げることができました。署名スタートからわずか2年4ヶ月での達成であり、全国最速であります。誰もが不可能と思った署名活動も『幸村公の最後の最後まであきらめないネバーギブアップの精神』が結実したものと思っております。スポ少では、大会出場チーム名を『真田三代』と『真田丸』に変更し、PRそして署名活動にご協力頂きました。

 平成22年から始めた「真田幸村公出陣ねぷた祭り」は、県の補助金を活用して、大河ドラマの放映に向けて地域の一体感の醸成を図るため、第一次上田合戦に合わせて8月8日に開催し、昨年は第二次上田合戦に合わせて9月18日に実施しました。2,000人が勇壮なねぷた4台を曳行し、青森県弘前市の伝統・歴史・文化を取り入れたねぷた(扇型大灯籠)で、城下町上田の夜が幻想的に彩られました。今年は、ねぷた等10台と真田氏や大阪夏の陣の武将の子孫を招待するなど新たな話題も提供しながら、大勢のみなさんに上田の地へ訪れて頂くため、城下町の香りが漂う町づくりを目指して取り組んで参りますので、みなさんのご協力を心からお願い申し上げます。

 現在、健康で元気なスポーツの町づくりを進めるため、その基本計画である『上田スポーツ振興ビジョン』を全国の体育協会に先がけて、2月に策定しました。また、4月には課題であった市内3体育協会(上田・丸子・真田)の統合がスタートします。私は、あらゆる場面でスポ少のモットーと目標を持つ大切さを基本に位置付け、これからもチャレンジ精神を忘れず、歩んで参りたいと考えております。

 人生一期一会の出会いに心から感謝を申し上げますと共に、今後皆様のご健勝とご活躍、そして、スポ少の益々のご発展を心から祈念申し上げ、挨拶とさせて頂きます。30年間、本当にありがとうございました。

上田市軟式野球スポーツ少年団25周年記念誌より(平成18年11月19日)
『たかが野球といわれても野球をとおして成長した25年 ・・・みんなに感謝!』

代表指導者 宮下省二

 昭和57年、青少年の健全育成を目標にスタートして以来、25周年という大きな節目の年を迎えることができました。この間、お蔭様で大きな事故もなくすべての事業が予定通り実施できましたことは、皆様方の心暖かいご協力の賜物と心から感謝申し上げます。活動の中で役員、団員、保護者を始め大勢の野球関係者との貴重な出会いがありました。試合を重ねるたびに、自らの野球知識の無さを悟り、団員と共に技術や理論の勉強を積み重ねながら今日を迎えました。四半世紀に及ぶ活動の中で全国大会5回の出場は、スポ少の輝かしい栄光であり、また団員の皆さんの中学・高校・大学・社会人での活躍は本当に嬉しく感謝しております。さらに、野球の頂点を目指して、鈴木良二君(9期)と宮永武君(11期)等は、社会人野球で活躍をされております。いずれにしましても、どんな職業についても、常に目標を持ってその実現に向かう行動は、野球で学んだことと同じ道(野球道)であります。スポ少で学んだことをいつまでも忘れずに、あらゆることに挑戦をして欲しいと願っております。大きな希望を持って羽ばたく卒団生のなかで、悲しくそして残念なことは、第6期の大沢一郎君と第8期の上野和也君等が、すでに来世へ旅立ってしまったことであります。今はお二人の安らかな御冥福をお祈り申し上げたいと思います。そして、九州男児の水下コーチは、当少年団の規律担当コーチとして、剣道の考えを野球に取り入れ、熱い情熱と優れた指導で団員達に接して頂きましたが、49歳という若さで他界されました。謹んで哀悼の意を捧げます。ありがとうございました。

 私の指導時での口癖は、「大きな声を出せ!人を助ける声をかけろ!」「自分を変えろ!勝ちたい気持ちを態度にあらわせ!」「野球をやっている振りをするな!気持ちを入れて打ち込め!」そして、「なぜ出来ないのか、なぜという気持ちを常に持って取り組め!」であります。野球の勝敗は、技術の良し悪しもさることながら、いかにして全員が協力しあってチームの団結力を高め、総合得点で相手チームを上回るかであります。その気持ちをいつまでも持ち続ける限り、生涯に渡ってあらゆる場面で成長して行くものと考えます。しかし、みんなの気持ちが一つになるまでの間、高いハードルが存在するのも確かです。それを乗り越えるために、強い体力と忍耐力、そして学習が欠かせない条件だと思っております。誰もが一度しかない人生をいかにして完全燃焼させるかは、人によって違いはありますが、私は最初から諦めたり、悲観したりしない強い人間になって欲しいとの思いから、厳しい練習をあえて課してきました。今後の人生の中で、思い悩む時がありましたら当時の野球ノートや苦しい練習、そして記念誌等を思い出して困難に立ち向かって下さい。

 本スポーツ少年団の特徴は、野球以外で数多くの経験を積んできたことであります。千曲川ゴミゼロ運動に始まり、鎌倉市・上越市との姉妹都市交流、長野冬季オリンピック招致団や日中友好団の上田駅等での歓迎、星のまち駅伝、花一杯運動、子供文化祭、上田眞田まつりの大助隊、上田わっしょい、映画のエキストラ参加などであります。スポ少に関係ないとの異論があったことも承知していますが、今後、社会人として野球だけの経験で生き抜くことは不可能であります。より多くの舞台へ登場させることにより、自分の長所を知り、それを伸ばすことができればとの思いで参加させてきました。そして、団員達は上田わっしょい、子供文化祭などの事業で、いつもその存在を力強くアピールしてきたのも事実であり、真面目に取り組んできた成果と大変嬉しく、ありがとうとの気持ちで一杯です。

 一時、サッカー人気の高まりから野球人口の減少が続き、団の存続も心配されましたが、本年は大リーグでのイチロー、松井、田口選手を始めとする日本人選手の活躍や、第1回WBCでの優勝、日本ハムの新庄、早稲田実業の斎藤投手(ハンカチ王子)の活躍など野球の話題が豊富な年となりました。この良き年に25周年の記念すべき式典、事業が開催されスポ少30周年へ向けて大変良いスタートとなりました。今後とも野球を通して子供達への変わらぬご支援、ご協力を賜りますよう心からお願い申し上げ、挨拶と致します。

 本当に長い間ありがとうございました。

尾崎さん葬儀における弔辞

尾崎さんありがとう

 上田市軟式野球スポーツ少年団に尾崎さんの息子さんの順君が入団してから、尾崎さんとスポーツ少年団との出会いがあり、活動が始まりました。

 最初は、声が大きく少々口がきつい尾崎さんに戸惑いましたが、合宿や大会が始まるとチームのために精一杯のご協力をいただき、父兄の先頭になって目を真ん丸にして大きな声で声援をいただく姿に目頭が熱くなり、期待に応えねばとコーチ一同心身ともに燃焼して指導に当たりました。チームは、東信大会、県大会の出場に向けて練習に励んでおりましたが、まだ発展途上であり大会ごとに非常に苦戦をしいられ、負けた試合後うつむいている私たちに向かって、尾崎さんから「いやーよく戦った、コーチの皆さんありがとう、ご苦労さん」と真っ先に声をかけていただき、本当に勇気づけられたことを今も昨日のように瞼に浮かんできます。尾崎さんからの励ましをうけ、一緒に泣き、笑い、そしてその後5回の全国大会出場を勝ち取ることができました。尾崎さん本当にありがとうございました。

 尾崎さんには、スポーツ少年団の10周年と15周年の実行委員長を務めていただき盛大に挙行されました。15周年の記念式典のおり、20周年の記念式典もお願したところ、「記念式典は今回だけで、20周年は他の人に頼んでおいてくれ」とおっしゃっていましたが、みんなで是非お願いしたいと言ったところ、「また近くなったら連絡ください」と力強くおっしゃってくださいました。尾崎さんは、親分肌で、心優しい思いやりのある実行力の人でした。一緒に2年後の20周年を迎えるつもりでいたのに、あの世に旅立たれてしまい、本当に残念でたまりません。

 上田市軟式野球スポーツ少年団は、今後も天国の尾崎さんに笑われないようにコーチ一同身を引き締めて練習に、そして子供たちの育成に精進したいと思います。

 尾崎さんは、今まで1日24時間が少な過ぎるほど忙しく活動されました。どうぞ安らかにおやすみください。そして、天国からまた、いつもの大きな声で叱咤激励願います。

 尾崎さん、本当にありがとうございました。

平成11年9月27日    
上田市軟式野球スポーツ少年団
代表指導者 宮下省二    

上田市軟式野球スポーツ少年団20周年記念誌より(平成13年3月18日)
『涙を流し・・・そして奮起した20年』

総監督 宮下省二

 今年で20周年の節目の年を迎える事ができました。この間、役員の皆様方を始め団員・保護者ならびに数えきれない野球関係者との出会いがあり、そして人生の別れがありました。今振り返ってみると、試合に負けて選手と一緒に涙を流し、保護者の涙を見た時この悔しさはきっとこの次は取り返すと心に誓ったものでした。朝夕の通勤途中に「この次はきっと」「この次は必ず」と自分に言い聞かせてきました。そして、想像を絶する厳しい練習が実った後には、決まって喜びの涙が溢れ出ました。しかし、その陰にはいつもつらい悲しい思いをした人が存在しました。それはまず選手達・・・保護者・・・そして・・・。練習は、厳しく本当にやる気が出るまでとことん追求してきました。時には突き放して練習をやめたり、選手をグラウンドから出したり、試合から無理やりはずしたりもしました。そんななかで、私は選手に話したことは「大きな声を出せ」「人を助ける声をかけろ」「本当の気持ちを態度に出せ」でした。選手は、本気にならないと大きく変わりません。変わったような姿を見て、何回も苦汁を飲まされました。また、この間野球を辞めようと真剣に考え、練習を休んだ;こともありました。そんな時、選手や保護者からの電話や手紙が届いたりしました。根負けしてグラウンドに顔を出すと、選手の真剣なまなざしに触れ、いつの間にかバットを握っている自分にあきれたこともありました。

 思い出されるのは14期の冬期練習の時でした。持病の不整脈がひどく自宅でふせっていると、NHKのラジオ番組で「東京のスポーツ少年団の雷コーチ」という放送が流れてきました。大変厳しい少年野球のコーチの話でした。興味を持って聞いていると、雷コーチの活動が自分の姿に本当に似ており、無性に涙が」こぼれてきて止まりませんでした。この人も頑張っているんだと今日まで言い聞かせてきました。この時、ゲスト出演していたシンガーソングライターの中村ブンさんとは、水戸の全国大会で偶然お会いして、少年団の歌を作っていただくことになり、縁とは不思議なものとつくづく感じたのでした。

 最後になりますが、20年間にわたりわがまま一方な性格にも関わらず一心同体で指導に当たってくれた土屋コーチ、高橋コーチ、土井コーチを始め大勢のコーチ、保護者の皆様方に心から感謝致します。選手の皆さん、ケツバットそして正面バント痛かったですか。ごめんなさい。今後は、少年野球の組織の拡充や国際化に微力ながら当たっていきたいと考えます。今年いただいた年賀状の一部を紹介します。たくさんの年賀状ありがとう。

【21世紀に逞しく生きる、君達の活躍を楽しみにしています。】

上田市軟式野球スポーツ少年団15周年記念誌より(平成9年3月16日)
『野球をやっている振りをするな!気持ちを入れて打ち込め!』

総監督 宮下省二

 昭和57年、国民的スポーツとして野球人気の高まる中、「上田市軟式野球スポーツ少年団」の前身である「少年野球教室」が、市教育委員会の主催で誕生してから、本年で15周年の節目を迎えることができました。

 この間、初代団長の平野県会議長(故人)、二代団長の若林体育協会長(故人)、三代団長の信州ハム久保社長、現在の石井団長を始め、市スポーツ少年団岩草本部長、更埴中央病院吉松ドクター、上田スター商会滝沢社長や、千葉ロッテマリーンズの伊達スカウトなどの各界を代表する方々の御指導、御協力を賜り本日を迎えることができましたこと本当にありがたく感謝申し上げます。また、団本部役員、各期の保護者会の皆さんや多くの指導者の方々のお力添えをいただく中で、県内でも屈指のスポーツ少年団として組織・活動内容で評価を受ける団体として成長してまいりました。

 「たかが野球・されど野球」人々は野球を評して様々な考えを論じます。私達のスポーツ少年団では野球というスポーツを通して、子供たちに学校教育で教えることのできない「勝利の喜び」そして、そこへ到達するための努力、協調性の必要性を一貫指導してまいりました。大人となっても人に負けない根性と共に、何処にあっても個人でなくグループ、職場の和を大切にみんなの力を最大限に引き出すリーダーになって欲しいと願っています。

 「野球をやっている振りをするな 気持ちを入れて打ち込め!」は、私の口癖であります。同じユニフォームを着ていても、気持ちのこもった人とそうでない人では結果に大きな違いが生じます。やる時は大きな目標に向かってくじけることなく精一杯努力する姿勢が大切です。今後も、体力の続く限りスポーツ少年団の指導にこだわりを持って子供たちと一緒に活動してまいりたいと思います。

 最後になりましたが、初代平野団長、二代若林団長、丸山正隆氏、大澤勝彦氏、保坂良夫氏の御冥福を心からお祈り申し上げます。

上田市軟式野球スポーツ少年団10周年記念誌より(平成3年11月4日)
『前年よりも一歩前進』を合言葉に

総監督 宮下省二

 昭和57年に野球の指導を始めてから、10年の節目を迎える事が出来ました。その間、若林体育協会長さん・岩草軟連会長さん等大勢の野球関係者の皆さんに、ご指導・ご援助を賜り、ここに10周年を迎える事が出来ました事に対し、感謝の気持ちで一杯であります。又、無限の可能性を秘めた素晴らしい子供たちとの出会い、一緒に野球が出来ました事は、私の人生にとって最高の思い出であります。

 昭和59年に上田市少年軟式野球教室からスポーツ少年団に組織が変わると共に、平野県会議長さん・上田スター商会滝沢社長さん・更埴中央病院吉松先生等の各界を代表する方々のお力添えをいただき、ここまで活動が発展して参りました。

 平成2年、スポーツ少年団の組織の拡充により、新たに団長に信州ハムの久保社長さん・副団長に上田商工信用組合の石井理事長さんを迎える事が出来ました。組織の確立と共に、役員・指導者・選手・保護者会の運営方針も決まり、初心に帰って野球というスポーツを見つめなおす事が出来ました事は、柴田事務局長さん・湯本会計さんを始めとする役員・保護者会の皆さんの絶大なるご協力の賜物と厚く御礼申し上げます。

 幸いにして、2年連続全国大会へ出場は致しましたが、まだまだ課題の多い発展途上のチームであります。今後とも「前年よりも一歩前進」を合言葉に全力を傾注して頑張るつもりでおりますので、よろしくお願い致します。

 10年間の活動に際して、ご協力を頂きました皆様方に重ねて御礼を申し上げご挨拶と致します。